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あちこち散歩3 木屋町界隈

■毎週日曜更新 権太呂スタッフの「旬な京都便り」

2013.08.24

こんにちは平沼です。
本日はあちこち散歩3をお伝えいたします。
今回のあちこち散歩は木屋町界隈をお伝えします。
木屋町界隈といえば、京都では若者だけでなく観光の方も多く訪れる、有数の繁華街です。
この近辺は幕末維新の歴史の宝庫の場所です。幕末ファンにはたまらない場所です。
あちこち歩いているといろいろな石碑を見つけることができます。

まずはこちらの石碑は、古高俊太郎邸跡です。
近江国出身の尊皇攘夷派の志士 古高俊太郎が潜伏していた邸跡で
枡屋事件が起こったところです。古高俊太郎は近江国の代官家臣の子で、
京都で薪炭商をしながら尊攘志士たちを支援、 長州藩の間者として活動して
いましたが元治元(1864) 年6月5日、新選組に捕えられました。
幕末京都をゆるがす池田屋事件の発端となった人物です。
いまはこの場所は和食屋「 志る幸 ( しるこう)」になっています。 

 

こちらは本間精一郎遭難地です。
文久2年(1862)閏(うるう)8月20日夜、勤王の志士本間精一郎は
ここで斬られました。
本間精一郎(1834~62)は,越後国出身で文武に長じ、
尊王攘夷の急進派として行動したが,酒色に身を持ち崩して志士仲間の反感を買い
文久2(1862)年閏8月20日、先斗町からの帰途に薩摩・土佐藩志士に暗殺されました。

 

そしてこの辺りは土佐藩邸跡です。この場所は木屋町蛸薬師の高瀬川に架かる
小橋のたもとにあります。ここが幕末の土佐藩の拠点になった場所です。
あの坂本龍馬も脱藩罪を赦された際に藩邸の中で七日間謹慎していたことがあるそうです。
当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。

こちらは土佐稲荷です。土佐稲荷(岬神社)は江戸時代は土佐藩邸内にあったが、
明治維新で屋敷が売却されたため、明治20(1887)年に現在地に移されました。
土佐藩邸の中にあって、ここだけは町人もお参りするための通り抜けを
許されていたとか。稲荷が藩邸の中にあったことから
「龍馬も近江屋さんから先斗町へ遊びに行く際に
稲荷へ立ち寄ったみたいだそうです。
明治維新後、一度別の場所に移りますが、近江屋のおかげで土佐藩邸が
あった場所に戻ってきたのだそうです。

鳥居の手前左側に龍馬のミニ銅像があります。

こちらは境内にある坂本龍馬の写真です。
実はこちらを撮影した際に、額には赤い筋のようなものは
なかったのですが、実際撮影した写真は赤いものがはっきりと映っていました。
坂本龍馬は暗殺された際、確か額を切られて亡くなったと聞いています。
写真を見たとき思わず「ぞっ」としました。
坂本龍馬の思いがこの土佐稲荷に残っているのでしょうか・・・。

疑問をもちつつこの辺りで終わりたいと思います。

それでは本日も最後までご覧いただき有難うございました。平沼