みなさま、こんにちは。
10連休という驚異の連休となったゴールデンウィークも終わり
いつもの日常が戻ってきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
7回目の登場となります、調理部の柴田です。
今回は歴史上のある事件の発端となったものがある神社を紹介したいと思います。
京阪電車七条駅の4番出口を上がり、川端通を北上すると
こんな名前の通りがあります。
調べてみると、西は千本通、東は大和大路通まで伸びています。
東に向かうとこんな名前の銭湯も
東の突き当りにあるのがこの神社
豊臣秀吉を祀った神社で、徳川幕府により廃祀されていましたが
明治天皇により再建、復興されたものです。
「正面」はこんな感じ
境内はこんな感じ
豊国神社前の正面通は寂しい通りなのに京都には珍しく広い道
秀吉の痕跡があちらこちらに
絵馬も秀吉ゆかりの「瓢箪」
本殿はこんな感じ
昔この地は方広寺の境内であり、秀吉はこの地に大仏を建立する予定でした。
ですが度重なる地震や火災により完成しませんでした。
「正面通」は秀吉が作る予定であった大仏の「正面」にあたる筈だったのです。
その後秀吉の子、秀頼が大仏を再建立する際に同時に鋳造した鐘が現在も残っています。
鐘突き堂はこんな感じ
鐘はかなりの大きさです
鐘には文字が彫ってあり、白塗りで協調してあります
「君臣豊楽」「国家安康」
そう。この鐘は「家康」の名を分断し呪いを掛けている、
との言い掛かりを徳川家が豊臣家につけ
その後大阪冬の陣、夏の陣になり豊臣家が滅亡する「鍾名事件」の鐘です。
また豊国神社の斜め前にある公園の名前は「耳塚公園!」
名前の由来は隣にあるこの塚
この塚は秀吉が文禄・慶長の役の際に、戦功として敵兵の耳と鼻を削いで持ち帰ったものを
供養するために建てられた「耳塚」だそうです。
徳川幕府が長きにわたり国を治めたこと、秀吉が京の町をある意味自儘に作り替えたこと、
また晩年に行った所業が元で秀吉は京都の人々から人気がなく
歴史の痕跡も多くが無くなっています。
私個人としては明るい人柄で「太閤さん」として人間味のある秀吉に好意を持っていますし、
晩年の悪行も今でいう「老人性痴呆」に由来するものであったのではないかと
個人的には思っています。
みなさまも京の町に隠された秀吉ゆかりの地を巡ってみるのはいかがでしょうか?
おまけ
川端通と正面通の交差点角にある和菓子屋さんにもこんな名前の商品が…
調理部 柴田