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あちこち散歩2 島原周辺

■毎週日曜更新 権太呂スタッフの「旬な京都便り」

2013.08.10

こんにちは平沼です。本日はあちこち散歩2をお伝えいたします。
今回は花街の歴史を訪ねて島原周辺を歩いてまいりました。

 
京都丹波口駅を下車し徒歩5分くらいのところに行くと島原周辺につきます。
島原とは1641年(寛永18)に六条三筋町から移されたわが国
最初の公許の花街です。
この辺りは、歓楽街として 華やかな歴史があった所です。
その昔島原には50軒ほどの置屋さんと約20軒の揚屋さんがあったそうです。 

ちなみに京都には、島原、上七軒、祗園甲部、祗園東、先斗町、
宮川町の6つの花街が存在し、 「六花街」と称されて、
京文化の一翼を担ってきましたが、
現在は、茶屋営業がなくなった島原を除いて5ヶ所となり、
「五花街(ごかがい)」と呼ばれている。

島原の名の由来は1641年幕府命令により突然の移転命令が出て 
50軒ほどの置屋さんと約20軒の揚屋さんは現在地へと移転を余儀なくされました。
その時の、移転の様子や 移転を受け入れるこの辺りの住民の方達の狼狽ぶりが
あまりにひどく『島原の乱』の様にも見え・・・・・いつしかこの地が島原と
呼ばれるようになったと伝わっているそうです。
確かに島原と言う地名も住所にはありません。
このあたりは下京区西新屋敷といいます。

こちらは坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、新選組も遊んだと伝わる
揚屋(料亭)の角屋(すみや)です。
太夫さんを呼んで宴をする今で言う料理屋さんで揚屋と言います。

角屋はいまでは、一階の台所や網代の間、松の間、美術品を展示する
展示館が角屋もてなしの文化美術館として公開されています。
遊宴だけでなく、お茶会、句会の場所としても使われ
文化サロン的な役割を果たしていたそうです。
新撰組 初代筆頭局長・・・芹沢鴨は ここでの宴席の後 壬生に戻った所を 
新撰組から暗殺されています。



こちらは現在の大門です。
この門は1854年(嘉永7)8月の大火では島原の東側は大半が類焼しており、
このとき門も焼失したと考えられています。
大火後、門は再建されました。

本柱上の屋根のほかに後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗門で
前には「出口の柳」が植えられ「さらば垣」がめぐられて、
今日も当時の趣を伝えており島原の由緒を伝える地域の文化財として
貴重なものだそうです。
この門の前にくると、時代がタイムスリップしたようなそんな気持ちになります。

 

こちらは置屋建築の「輪違屋(わちがいや)」です。
太夫さんを育てる所で置屋とも言います。
現在では、お茶屋さんとして営業していますが観覧謝絶の札が掛けられ
なかには入ることができません。一見さんお断りなのです。
輪違屋の現在の建物は安政3年(1856年)の火事の後に再建されたものです。 

吉野太夫の江戸時代の二代目吉野太夫(1606-1643)は、
本名を松田徳子というそうです。
京都は西国の武士の家に生まれ、7才で六条山筋町扇屋林家に禿(かむろ)
として預けられ、14歳で太夫となりました。
島原、六条三筋町の「六条の七人衆」の筆頭、「寛永三名妓」の一人で、「
天下随一の太夫」と謳われたそうで、その美貌と品格、和歌、俳諧、書、茶湯、
琴、琵琶、笙、香道、華道など諸芸に秀で、その名声は江戸、
遠くは中国にまで及んだといいます。

こんなエピソードが残っています。
ある時、小刀鍛冶屋の弟子という男が、座敷に上がろうとしますが
身分不相応ということで門前払いされていました。
なんと島原に3年間通いつめたそうです。
太夫は自ら座敷に招き入れ、男は歓喜の涙を流し、その翌日身投げして果てたといいます。
よほど太夫に魅せられたのでしょう。
太夫は1631年、紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益に26歳で身請けされ、
その妻となり38歳の若さで生涯を終えました。

京都にはいろいろな歴史的建物や場所がありますが
この島原はとても昔にタイムスリップした気持ちになってしまいます。
今では新しい家ができその時代は忘れ去られていますが
夜にこの辺りを散策すると、きっとその当時の花街の賑やかな声を感じるかも
しれませんね。
本日は最後までお読みいただき有難うございました。(平沼)